‘知 : 哲学思想に関する雑記’ カテゴリーのアーカイブ

バタイユの思想を題材にした作品:有人彗星「恍惚の点」

2009年12月13日 日曜日

バタイユの作品をテーマにしてアートを展開する作家さんは何人かいるけど、有人彗星さんの作品は興味深いのでご紹介。

http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51576081.html

この「恍惚の点」は”水の中の水”のような作品。また、別の作品ではウォーホルとバタイユとを関連付けた肖像がもあり、これにも感銘した。
もっと、大きなサイズで作品が観れればと思う。

ジョルジュ・バタイユについて:ジル・ド・レ、サド侯爵とモダンアート

2009年11月8日 日曜日

15世紀、キリスト教が支配するこの世界にも、エロティックな歴史は続く。
 ジル・ド・レ(Gilles de Rais)は、1404年にブルタ-ニュ地方の封建領主の家に生まれ、1440年に、幼児虐殺と魔術実践の罪で逮捕され、ナントにおいて処刑された。オルレアン解放戦でジャンヌ・ダルクの右腕となって猛名をはせた彼は、25歳の若さでフランス王国陸軍元帥になる。しかし、1432年から処刑されるまでの8年間、彼は底抜けの濫費による破産、幼児虐殺、魔術と錬金術への耽溺の日々を送った。彼の死後、その邸宅から二百余りの人の遺骸が発掘されたという。また、シャルル・ペロ-の『青髭』のモデルは彼である。

このような彼の生涯で特徴的なことは、法外な濫費と、性的倒錯をかねた幼児虐殺である。彼の幼児虐殺の内容は、彼の生け贄の多くがジャンヌ・ダルクに捧げられていることにその特徴がある。彼の従僕ポワトゥ-の世俗裁判所に対する証言によれば、ジル・ド・レは自分の勃起したペニスを、ジャンヌ・ダルクに似た男の子や女の子の腹の上に擦りつけたり、肛門に挿入したりして射精し、この快楽の後、この子供達の首を刎ねては喜んでいた。また彼は、跳ねた首の数々を煖炉の上に並べ、その美しさを物色していたのである。

バタイユが『ジル・ド・レ論』の中で指摘するように、ジル・ド・レの理解不可能な行為は、12世紀の貴族や騎士なら理解できたであろう。1949年の「クリティック」誌38号で、バタイユは中世騎士道の倫理について述べている。彼は「中世の騎士は、キリスト教社会のなかに嵌めこまれて、一情熱へのこの排他的な崇敬に没頭することができないまま、それでも倫理的な次元では、魅惑する情熱の人間だった」(A.C.2,273)とし、中世騎士道の倫理が、魅惑的な情熱というエロティシズムの聖なる力で支えられていたことを、武勲詩や「円卓物語」の中に認めている。バタイユは騎士の聖なる力について次のように述べている。

「それは、ひと殺しや屠殺場でのけものの屠殺とは直接には異ならない闘争の荒々しさのうちに、端的に実現されるものである。陋劣な喧嘩や刃傷沙汰や性犯罪も、聖なるものに結びつくが、さもしい形でであり、殺人者を、非弁別的でいわば無限定な人間のさもしさの水準に位置づけるものである。規律や掟の不在性、すなわち、いかなる戒律によっても支配されていない陋劣な内在性に、対応するさもしさである。原則として、闘争的な殺人行為は、容易に捕虜や男女の非戦闘員の殺戮へとずれるものとして、人間性に内在するおぞましさに属するものだ」(太字は原文の傍点、A.C.2,278-279)。

中世騎士たちの卑劣で見苦しい倫理観は、オルレアン解放戦でジャンヌ・ダルクの右腕となって猛名をはせたジル・ド・レの殺戮、しかもセクシュアリテな行動をともなう、エネルギ-の無際限な濫費に、共鳴しているのである。

シャルトル大聖堂のように、無限に天空へと昇っていくかのような、至高の精神の持ち主であったジル・ド・レのような人は、時代遅れの田舎貴族でしかなかった。ゴシック芸術の時代からルネサンスへと移行する狭間に生まれてしまった彼の生涯は、ゴシック芸術の精神と共に焔の中に消えていった。

16世紀末のハンガリ-に生きた伯爵夫人エリザベ-ト・バトリ-(Elizabeth Báthory)は、ジル・ド・レの残酷性を越えていた。枢機卿やトランシルブァニア公、ハンガリ-の宰相などを輩出していたバトリ-家は、財産の分散を防ぐため、近親婚を繰り返していた。エリザベ-トの両親はいとこ同志である。彼女の兄は色情狂、伯父は悪魔崇拝者であり、伯母はレズビアンであったという。また、バトリ-家の紋章は狼の牙をかたどったものであり、彼女の周りの環境は血と死のエロティシズムでみたされていた。

エリザベ-トは幾人もの男と情を交し、自分の美しさに興奮していく男の様を見ては、楽しんでいたそうである。しかし、彼女の快楽は情交では得られなかったようである。彼女は自分の美しくさを保つことで得られる快楽のために、多くの血を浴びるようになった。エリザベ-トはある装置を作らせ、そこに娘たちを入れ、血のシャワ-を浴びていた。また彼女は、4人から9人の娘の血を張った浴槽にその身を浸していたのである。彼女の犠牲になった娘は600 人を越えるという。

エリザベ-ト・バトリ-が生きた16世紀末に、現在マニエリスムと呼ばれる絵画が登場してくる。フランスのマニエリスムの代表作にフォンテ-ヌブロ-派の『ガブリエル・デストレとその妹』があるのでとりあげてみたい。作者不詳のこの絵は、「二人の若い貴婦人が並んで一つの浴槽に入っている図で、その一人がもう一人の乳首を指でつまんでいる。これは、その乳首にふれられている女、アンリ四世の寵妃ガブリエル・デストレが、妊娠していることを暗示しているのだそうである」(澁澤龍彦著『エロスの解剖』河出書房新社、1965、139ペ-ジ)。この絵が「認められるようになったのは比較的近年である。エロチック故に、みんな見て見ないふりをしていたに違いない。つまんだ乳首がぽろりと落ちそうな気に誘われる」(池田満寿夫談、『文藝春秋』昭和60年12月特別号、収録)。長い間、バトリ-の孤独な晩年のように闇の中に埋もれていたこの絵も、最近では、エロティシズム絵画を語るときに欠かせない存在である。故に、「エロティシズムは全体において一つの組織された活動であり、それが各時代に変化するのは、組織された程度によってである」(Er.156)ことが言える。

バタイユはジル・ド・レとエリザベ-ト・バトリ-の残酷さから、サドを連想している。

18世紀の作家マルキ・ド・サド(Marquis de Sade)は本名をドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サドといい、1740年から1814年までの74年間の生涯のうち通算27年を監獄で過ごしている。この投獄は、アルクイユ事件、マルセイユ事件などにおける毒殺未遂、後背位性交、風俗壊乱などの罪によるものである。サド家はブルボン王家につながる宮廷貴族コンデ家と血縁関係がある。彼の作品には、殺人、鞭打ち、強姦、嗜血などの場面が数多く出てくるが故に、20世紀に入るまで評価されなかった。しかし、彼の作品をエロ文学として読むのは誤りである。

1797年、サドは全四巻からなる小説『新ジュスティ-ヌあるいは美徳の不幸』を出版する。その内容は、両親の破産により一文無しになった主人公ジュスティ-ヌの敬虔な美徳が、多くの悪者の快楽の対象となり、結果的には彼女自身も多くの罪を犯すはめになる物語である。この小説は姉妹小説の片割れであり、彼女の姉ジュリエットを主人公にした全六巻からなる『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』が同じ1797年に出版されている。作品の題名からもわかるように、姉のジュリエットは自ら悪徳を働き、社会的な地位を獲得していく物語である。

この姉妹本の特徴は、人間の残酷を描いていることである。また、これはサドの著作全てに言えることであるが、物語の随所に、自然・神・道徳などについての彼の哲学が盛り込まれている。そのサドの哲学は、自然・神・道徳など、18世紀の全ての思想を否定している。この意味において、サドは18世紀の思想を全て反映しているといえる。

サドの小説のように、18世紀末のフランスは混乱(libertinage)していた。華美な服装やポルノグラフィ-が流行していた。1789年にはバスティ-ユ襲撃があり、フランス革命が始まっている。フランス革命は穏健派のジロンド派と急進派のジャコバン派との争いへと発展し、国民公会で指導権を握った後者は恐怖政治と呼ばれる革命的テロリズムを強行している。サドは、この革命で多くの実力者たちが絞首刑に処せられているのを目の当りにしていた。実際にサドも、1794年7月27日(熱月九日)の際に、死刑にされるところであった。こうしてサドは,より恐ろしい叫びと血塗れの肉体を物語るに至る。

このように混乱したフランスにおいて、この時代を反映しているサドのポルノグラフィ-は禁止の対象となっていた。サドは自分の姉妹本の著者を、「すでに死亡した作者の筆による」と偽っていた。この様に、サドが匿名にしていたにもかかわらず、1801年に、出版元であるマッセ書店が警察の捜査を受け、この書店に居合わせたサドは、その場で逮捕された。サドが逮捕された理由は、彼が文学史における、コペルニクス的転回を果たしたからである。このことの意味は、バタイユの次の言葉で表わされる。

「サドより以前に、勃起および射精の反射作用と法の違犯とを結びつける一般的なメカニズムを捉えた者は、ひとりもいなかった」(太字は原文の傍点、Er.288)。

サドは、エロティシズムがタブ-として闇に葬られるように、多くの実力者が闇に葬られるのを見て、「恐怖と混り合った変則的なものの学説を展開した」(太字は原文の傍点、Er.289)のである。「何が正気で何が狂気か、何が善で何が悪か」という問いは、現在では、夜の闇へとむかう犠牲者となっている。何に対する犠牲者か。それは人類の否定に対する犠牲者である。私のこの言葉は、おそらく、サドの著作を愛読している者なら解かってもらえるだろう。サドの著作を愛読している者以外の私の読者に対しては、次のように言うことができる。“ノ-マル(normal)なものとアブノ-マル(abnormal)なものとの間には、絶対的な境界線はない。そして、この不安定さ(揺らぎ)が社会秩序を維持している”。キリスト教が祝福するような性交は欺瞞である。また、戦争に見られるように、殺人は必ずしも悪とはならない・・・。

この当時の代表的な画家として、サドより6歳年下のフランシスコ・ゴヤ(Francisco Goya)が挙げられる。バタイユは、サドの監獄での生活とゴヤの聾とに、孤独からくる過度の苦痛に対する強迫観念を、二人に共通の特徴と考え、「ゴヤはサドのように、苦痛と快楽とを結びつけはしなかった。とはいえ、ゴヤの死と苦痛に対する強迫観念(hantise)には、これらをエロティシズムに類縁づける痙攣的な激烈さ(violence)があった」(澁澤龍彦著『幻想の彼方へ』河出書房新社、1988、209ペ-ジおよびL.E.106)と述べている。サドの監獄での孤独とゴヤの聾による孤独は、二人に、吹き上げる嵐の後の悲しみをもたらしていた。彼らの作品は人類の孤独な影のしるしである。 ゴヤの有名な絵の一つに『裸のマハ』と『着衣のマハ』がある。アンドレ・マルロ-によれば、普通の裸婦像が始めから衣服をはねつけているのに対して、ゴヤのマハは今迄着ていたい服を捨てるところに、その差異があるという(澁澤龍彦、前掲書、217ペ-ジ)。つまり、ゴヤのエロティシズムは、「私たちが互いに着物を着ることによって保っている礼儀作法を破壊」(太字は論者、Er.248)しているのである。この点で、サドとゴヤは一致する。サドとゴヤのエロティシズムは、キリストの神と対置する変則的なものという怪物たち(freaks)を創作してきたのである。どうやら、ゴヤが『魔女のサバト』のようなディオニュソスを連想させる作品を多く描いた理由は、ここにありそうである。

サドが生きた時代の芸術は、ロココ調で支配されていた。その例として、フランソワ・ブ-シェ(François Boucher)の『オダリスク』(1743)を挙げてみたい。この絵の特徴は、その大胆なポ-ズにある。この絵のモデルである宮廷夫人が、閏房の中で、この時代では禁止されていた後背位性交を求めているかのように、こちらをうつろな眼差しで見ている、なんともエロティックな絵画であり、この当時のエロティックな時代を反映している。背景の濃紺のビロ-ドが、彼女の肌の色を鮮やかなものにし、液体的で神聖なエロティシズムを思わせる。この絵の題名であるオダリスク(L’Odalisque)はトルコ王宮のハレムの女のことであるが、エロティックな絵を描くための口実でしかない。

この当時の西洋絵画では、裸体を描くことは禁じられていない。ユダヤ・キリスト教的世界観における禁止の基準は、宗教的にみて風俗壊乱に当たるか否にある。この時代において人物を描くときには、聖書や神話の物語、歴史的な場面、理想化した人間を、それ相応の身分の人間をモデルとして描かなければならなかった。

このような偏見と戦った画家として、ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet)の名が挙げられる。1819年に生まれ1877年に亡くなったこの画家は、自分の眼にふれる周囲の現実を力強く直截に描いたので、今日「近代絵画の父」と言われている。フランス革命後の激動の時代を生きてきた彼は、ロマネスクの崩壊を感じ取り、レアリスムに固執した。ク-ルベの写実主義にはボ-ドレ-ルの影響があり、生身の肉体をもった女たちの姿を描いた彼の絵は、「悪の華」を連想させずにはいられない。

バタイユの著書『エロティシズム』が「美女殺し」と言われる(山田登世子「バタイユの美女殺し」現代思想第17巻第1号<青土社、1989年1月>36-51ペ-ジ)所以は、彼ら(ボ-ドレ-ルやク-ルベ)の芸術の系統を引いているからである。

ク-ルベは、生身の肉体をもった女たちの姿、すなわち生活における快楽や気苦労がにじみ出た女たちの姿を描いた。その例として『まどろむ麦刈り女』が挙げられる。体格のいい女がその乳房を露にして眠る姿を描いたその作品には、労働の後の疲れがよくあらわれている。ブルジョワ階級と思われる二人の若い女が抱き合いながら寝ている姿を描いた『眠り』(1866)は、ネックレスなどのアクセサリ-の存在が、彼女たちの生活を表わしている作品である。ク-ルベは17世紀の画家ベラスケスや同時代のドラクロア(彼はル-ベンスやゴヤの絵を手本としている)などの絵をテキストにして独学で学んだため、彼の筆のタッチには彼らの影響がみられる。しかし、彼の絵の美しさ、彼のエロティシズムは、生も死も、美も腐敗も、全てのものに対する現実を描き抱いたことにある。彼の現実を見る眼は、『世界の起源』(1866)や『白いストッキングの女』(1861年頃)などの、今日なら裏本や裏ビデオにしかならないようなエロティックな作品を生み出すに至る・・・。

1863年の作品に、マネの『オランピア』がある。オランピアとはギリシャ語で「気品」「威厳」を意味する言葉であり、この絵の雰囲気をよく表わしている。この絵に描かれている中肉中背の美しいスタイルをした女性は、全裸でベッドに横たわり、左手を右の腿の付け根にあてている。薄暗い背景が彼女の白い肌と白いベッドとを浮きあがられせ、宇宙空間を遊泳しているかのようである。しかし、この絵は当時の人々に受入れらなかったことはなかったが、大変なスキャンダルを巻き起こした。

作者であるエドゥアール・マネ(Edouard Manet)は、今日、印象派の父と言われ、パリと市民を描いたジャポニスムの画家として知られている。彼のこの絵のスキャンダル性は、遠近法を無視し、肉ずけを少なくして理想化を排除し、画面を平面化したことにある。この性質は彼のタブロ-全てにあてはまることである。彼は現実の姿を描きながら、画面の構成を重視し、人間の内面を描こうとした。彼のこの意図はク-ルベの影響によるものであり、後の印象派に受け継がれることになる。

マネの『オランピア』と同じ1863年に描かれた裸婦像として、19世紀アカデミズムの画家アレクサンドル・カバネルの『ヴィ-ナスの誕生』が挙げられる。愛らしい天使が飛びかう下で、薄く眼を開けながら海のベッドに横たわる裸婦は、その柔らかそうな肌色からも、エロティックなものを感じずにはいられない。しかしこの絵は、マネの絵のように、スキャンダルを起こすことはなかった。当時の禁止の枠組みに納まっていたからである。

1917年に一つの事件が起こった。ベルトウエ-ル画廊で開かれていたモディリア-ニの個展が、警察の手入れにより3時間で幕を閉じたのである。警察は、表のウインド-に飾られた裸婦が風紀を乱すとして、彼の初の個展を呪い、闇に葬ってしまった。

アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Modigliani)は、1906年から3年わたって、美しい線、リアルな肌色とモディリアネスクでもって、精力的に裸婦像を描いた。そのうちの5点が、彼初の個展で、禁止の対象となったのである。

モディリア-ニはディオニュソスのような人物であった。酒と女の悦楽の青春時代を送った彼は、毒のある(diabolique)人物だったと言われているが、実際の彼は心の優しいダンディ-な男であった。彼の人柄の良さは、ピカソ、キスリングなどの多くの友人がいたことに加え、アポリネ-ル、コクト-、ジャコブらが評価した彼の絵で証明できる。背景の赤い裸婦像は、ディオニュソスの秘儀図を連想させる。また、眼の色を背景や衣服の色と同化させる絵は、周囲の事物を見つめつづけ、それらと一体となる様を表現している。酒をくらい、芸術活動を通してオルギアを楽しむ、彼の古代的な作品が放つ、固体が液状化する時のような揺らぎをもったエロティシズムは、禁止を維持する側にとっては目障りな存在であった。そのような彼と、肉体的で神聖な心情のエロティシズムの中で生きた彼の恋人ジェンヌ・エビュテルヌの遺体は、聖なる生活をしたが故に、引き取る者がいないまま幾日か放置されたままであった・・・。

ピカソを描いた肖像画の中に「知性(savoir)」という文字を記したモディリア-ニは、ピカソの人柄をよく理解していた。事実ピカソは、10万作に及ぶ自分の作品のうち5万作を秘蔵し、作品価値の経済的コントロ-ルを行っていた。ピカソは、質的にはモディリア-ニと同じエロティシズムをもっていたし、量的には彼以上のものをもっていた。ミシェル・レリスは死ぬまぎわのインタビュ-で、ピカソが全てを芸術にする力をもっていたことと、彼が芸術を自分の楽しみで作っていた、ことを言及している。ピカソ自身「恋愛の情にかられて仕事をする」と自覚していたように、彼は膨大な量の肉体的で神聖な心情のエロティシズムで芸術活動をしていた。そのような情熱ゆえに、彼は自分のスタイルを破壊しつづけた上に、生殖器むきだしの絵を何枚も描いたのである・・・。

「冷静沈着のうちに犯される罪のほうが、熱狂的な感情とともに犯される罪よりもずっと偉大なのだ」(H.E.249)。

バタイユのこの言葉を絵にすれば、バルテュスの描くような絵になるに違いない。アルベ-ル・カミュ-がバルテュスのスタイルについて、「現実を修正するためには、(現代の多くの画家たちがしているように)現実に背を向けるのではなく、むしろ現実を利用しなければならないということを知っている」(澁澤龍彦著『幻想の彼方へ』河出書房新社、1988、89ペ-ジ)と云うように、バルテュスの絵は、現実を直視した画家ク-ルベのスタイルの延長線上にある。例えば『夢みるテレ-ズ』(1938)が挙げられる。長椅子に座る女の子が無意識にスカ-トの裾をあげているこの絵は、文字では表わせない微笑ましいエロティシズムを感じさせる。この微笑ましいエロティシズムを感じさせる他の作品に、『街路』(1933)、『窓』(1933)、『鏡にむかう猫』(1977-80)などが挙げられる。バルテュスの作品にはこの他にも、ディオニュソスの秘儀図を思わせる『朱いテ-ブルのある日本婦人』(1967-76)などの注目すべき、物語的な一種変わったエロティシズム絵画がある。彼のエロティシズムには、子供が何の気兼ねも無しに生命体を殺せるのと類似した、冷ややかなエネルギ-がある。現実は見れば見るほど気味の悪いものであるが、彼にはそれを感じない子供のような精神があるのだ。バルチュスの作品には子供のエロティシズムが詰まっている。童顔のアイドル・タレントの趣向者には、このようなエロティシズムが存在している。


=註=
※略記号

L.E.
Les larmes d’Eros
《10/18》

Er.
『エロティシズム』
(バタイユ著作集 第7巻)
澁澤龍彦訳、二見書房、1973

A.C.2
ジョルジュ・バタイユ著作集 第15巻
「神秘/芸術/科学 -社会科学論集2-」
山本功訳、二見書房、1973

H.E.
『エロティシズムの歴史』
湯浅博雄・中地義和訳、哲学書房、1989



あの頃、加藤和彦さん

2009年10月17日 土曜日

今日、加藤和彦さんが亡くなった。大好きなミュージシャンの一人であり、ファッションやライフスタイルにも影響を受けた。なぜ自殺をいう道を選んだのか。『Belle Excentrique』に収録されている「ロスチャイルド夫人のスキャンダル 」を金色の歌詞カードを眺めて口ずさみながら、つかの間の人生を想い、悲しみに耽る。




PENTAX K-m テストレポート@日本カメラ 2009年 06月号

2009年6月7日 日曜日

今までカメラ雑誌というものを買ったことがなかったけど、図書館で『日本カメラ』を見ていたらPENTAX K-mの記事が載っていたので買ってみた。
17ページにわたって、PENTAX K-mの特徴が科学的に調査・分析され、その結果が詳細に述べられている。その内容はPENTAX K-mのユーザーなら手元に置いて損はないと思う。



【告知】
「デザインのYES NO」@東京ミッドタウン・デザインハブ

2009年4月25日 土曜日






このイベントに参加してます。T-シャツ買ってくださ~い。



会期:4月15日(水)〜5月31日(日)

会場:東京ミッドタウン・デザインハブ


ジョルジュ・バタイユについて:芸術の誕生とディオニュソス

2008年9月20日 土曜日

バタイユは1955年に、『Lascaux ou la Naissance de l’Art(ラスコ-あるいは芸術の誕生)』という作品を発表している。その作品の中で彼は、旧石器時代後期のはじめ(約5万年前)に芸術(あるいは遊び)が始まったと言う。バタイユの仮説を、同じく彼の著書である、『エロティシズム』『エロスの涙』を合わせて要約すると次のようになる。

50万年前に、現在ホモ・ファ-ベル(労働の人間)と呼ばれている人間(例えばネアンデルタ-ル人など)が、石器を用いた労働をしていた。それから後の約5万年前に、今日私たちがホモ・サピエンスと呼んでいる、直立歩行する最初の人間が誕生した。その時代の労働は主に狩猟だったので、その活動は動物的活動の延長にすぎなかった。換言すれば、この時代の人間の生活と動物の生活とは労働という点で異なっていたにすぎず、この時代の人間は、私たちのような感性がなかったので、完全な人間ではない、ということである。そして、この時代の労働は、どうなるかわからない明日の運勢に賭ける(jouer)、というものであった。この意味において、この時代の労働は遊び(jouer)と同質である。しかし、この時代には四大氷河期(西暦紀元前60万年~西暦紀元前2万年)が集中しており、人間の生活は過酷なものであった。その後、ヴュルムと呼ばれる第四氷河期(西暦紀元前2万年)が過ぎると、気候はゆるんでいった。そして、人間にとって住みやすい環境の到来により、人間の中には、労働だけに縛られることなく生活する人間「ホモ・ル-デンス」が現われた(ホモ・ファベルは労働に縛られていた)。これ以来、ホモ・ル-デンスは労働という有用な活動のほかに、芸術活動(壁画や調度芸術などの創造)をおこなうようになった。これ等の芸術活動は、当時の労働である狩猟に捧げられていた。この活動は、呪術的な意味を帯びていた活動というより、「魔性的(diabolique)」な意味を帯びた活動であった。この魔性的な活動は、聖なる場所で繰り広げられる戯れ(jouer)という意味において、遊び(jouer)である。このようにして、感性的に、動物から人間への移行が起こった。

バタイユのこの仮説は、ラスコ-洞窟の壁画を資料として導き出されたものである。ラスコ-の壁画は西暦紀元前約3万年に描かれたものであり、そこには主に気候の穏やかな地域で生息している動物群が描かれている。このように、バタイユはラスコ-の壁画を芸術の誕生の証拠として取り上げている。 バタイユの遊びの起源に関する仮説は、『エロスの涙』で彼自身述べているとおり、初めから歯切れのいいものではなかった。彼は1953年の「クリティック」誌4月号(第71号)に載せた評論「動物から人間への移行と、芸術の誕生」の中で、先史時代の壁画は、描く過程では呪術的であったが、描かれた作品には呪術的な意味はない、と仮定していた。続く『ラスコ-の壁画』では、個人的な仮説を提出することが断念されている。1957年の『エロティシズム』でバタイユは、古代人の人生観と似た観念をもっている民族の国家では、動物を殺すことに由来する贖罪が存在することに目を付け、先史時代の壁画の主題は、殺害と贖罪にあると述べている。1961年の『エロスの涙』でバタイユは、この仮説についてかなり断定的に述べている。

バタイユの仮説で特徴的な点は三つある。一つ目は芸術の誕生を労働という有用な活動と結び付けている点である。二つ目の特徴は芸術の誕生を動物から人間への移行と考えている点である。三つ目は芸術の誕生を遊びの誕生と結び付けている点である。一つ目の特徴については先程説明した。二つ目と三つ目の特徴とは密接なつながりがあるので、結び付けて考える必要があるだろう。

バタイユは、動物から人間への移行が、労働によってではなく、芸術活動によって起こった、と考えている。換言すれば、人間と世界との対話が芸術活動により始まった、ということである。また彼は、ラスコ-の壁画を遊びの証拠とみている。この考え方は、先史時代の壁画が呪術的意図(有益な活動としての芸術活動)を表わしている、という一般論と対立している。バタイユのこのような仮説は、主にラスコ-の壁画を資料にして創出されたものである。

先史時代の芸術は動物から人間への移行と、遊びの誕生とを示している、という彼の仮説は、彼のエロティシズム論を根拠にして成り立っている。私は本論文の第2部第1章で、バタイユのエロティシズム論が「生」の部分を極小化していることに着目し、エロティシズムの真の姿である、死と腐敗から導き出されるエロティシズムについて述べた。バタイユが「ラスコー洞窟の最も深いところに、原罪のテーマ、聖書の伝説のテーマ!罪悪や性的興奮やエロティシズムに縛られている死!を見つけた」(L.E.63)と述べる根拠について、私たちは知る必要がある。

バタイユはラスコ-の壁画を前にして、「人間は生を拒否するが、その拒否の奇蹟的な乗り越えのなかで人間の生は実現される」(Er.107)と述べ、この絵が「殺害と贖罪を主題としたものに相違あるまい」(Er.107)と考えている。

彼がとりあげている壁画には、槍で刺されたビゾン(野牛)が描かれていて(野牛の長さは112cm)、その左には倒れている人が、そのすぐ下には鳥がいる。この絵に関する一般的な見解として、「鳥は狩猟のおとりで、人はビゾンと争って負けた狩人、ビゾンは槍で傷つき内臓が出ている」(『美の世界、鑑賞と表現』美術教育研究所編、浜島書店、1980、34ペ-ジ)という推測が挙げられる。これに対しバタイユは、動物の絵よりも人間の絵に注目している。というのも、動物の絵よりも人間の絵のほうが、極端に写実に欠けているし、描かれている数も、人間の絵の方が極端に少ないからである。

ラスコ-のこの人物画は鳥のような頭をもち、その生殖器は勃起している、エロティックな絵である。バタイユは、この人間が鳥の仮面をつけていると見て、「野性のなか、動物性の夜のなかに、なんとしてもみずからのうちに生まれ出てくる明晰で計画的なものを、溺れさせようとしている」(A.C.2,77)と解釈している。何故古代人たちは、精力的に洞窟の壁に絵を描きながら、動物であることをやめたことを誇りにせず、自分を動物から区別する人間性を拒否したのだろうか。バタイユは、「人間は生を拒否するが、その拒否の奇蹟的な乗り越えのなかで人間の生は実現される」ことを、その根拠としている。すなわち、古代人たちは、彼らの食料となる動物を殺しながら、その許しを乞うていた、ということである。狩人である彼らは、このように食料となる動物を愛していたからこそ、人間の絵よりも動物の絵を丁寧に描いたのであり、常にそういった動物に対し悲しみを感じていたからこそ、古い動物の絵の上に新たな動物の絵を描き続けたのである。だから、「動物たちを愛しながら、殺した」(A.C.2,86)古代人たちは、体毛の少ない自分の顔に動物の仮面をつけたのであり、動物のように毛無垢じゃらの生殖器をさらけだしたのである。

以上のことを要約すると、
写実的な動物の絵と戯画化された人間の絵(友愛による悲劇的な絵とエロティックな絵)との差異は、動物の性的活動と人間の性的活動との差異である。古代人たちは、動物の死を悲しみながら、この差異を笑い、戯れた(jouer)。この戯れがさらに労働との差異をつくり、笑いを大きくし、戯れを拡げていった。

しかし、古代人たちが芸術活動をした本当の意味や目的は、依然として謎のままである。

先史時代の悲劇的でエロティックな世界は、古代ギリシャの世界に受け継がれている。私たちは、芸術が労働から生まれ、この労働を侵犯していることを知っている。芸術が「労働」と「侵犯」との二つの意義を帯びていることは、私たちにニ-チェの思想を思い出させる。

ニ-チェは1872に出版された『音楽の精神からの悲劇の誕生』の冒頭で、「もしわれわれが、芸術の発展がアポロン的なるものとディオニュソス的なるものとの二元性に結びついていること、あたかも生殖が、絶え間なく闘争を続けただ周期的にのみ和解を示すにすぎざる男女両性の二元性に依存しているのと同様であるということを、単に論理的に認識するにとどまらず、直接直観によって確証することを得たならば、美学のためにわれわれの得るところ、けだし多大なるものがあるであろう」(ニ-チェ全集2『悲劇の誕生』塩屋竹男訳、理想社、1979、24ペ-ジ)と述べている。三島憲一はこのニ-チェの言葉について、岩波新書の『ニ-チェ』中で次のように語っている。

 「重要なことは、芸術の歴史が矛盾と対立をはらんだ運動として捉えられている点である。ディオニュソスとアポロというふたつの原理の対立と葛藤が次々に新たな芸術を産み出しながら、両者の距離は架橋し難いまでに開いていくというのが、基本的論理である」(68ペ-ジ)

この文中のある「ディオニュソス」と「アポロ」という言葉を、それぞれ「侵犯」と「労働」という言葉に置き換えてほしい。すると、「侵犯と労働という二つの原理の対立と葛藤が次々に新たな芸術を生み出す」となる。この光景は、先史時代の人間たちが芸術活動をする姿と一致している。「ディオニュソス=侵犯」「アポロ=労働」としたことには、重要な理由がある。ニ-チェの言う「ディオニュソス的なるもの」「アポロ(アポロン)的なるもの」を明らかにしたい。

ディオニュソスもアポロも、ギリシャ神話に登場する神である。

ディオニュソス(Dionysos)は葡萄の神であり、祝祭の神であり、エクスタシ-を与える本尊である。彼の父は全能の神、神々の王であるゼウスであり、母親は、確定的ではないが、セメレというプリュギアの王女である。ゼウスは夜風に変身して、セメレに求愛するが、彼女が彼に、変装を解くように懇望した。ゼウスはその本来の姿を現わすが、生身の人間であるセメレは、彼の真の姿を見たために神火に打たれて死んだ。彼女の死の間際に生まれたのが、ディオニュソスである。成人したディオニュソスは、森の神シレノスに葡萄酒の魅惑を教えられる。ディオニュソスは人間に、葡萄酒による酩酊で人格の狭い枠を抜け出し、エクスタシ-に身を委ねる術を教えた神である。このように、ディオニュソスは侵犯の神であり、エクスタシ-の神であるとして、人々に崇められていた。

アポロ(Apollon)は太陽の神。医術・音楽の神にして、美術・詩・数学・予言の守り神でもある。ゼウスと黒い衣を着た乙女レトとの間に生まれた彼は、人間に中道と節度を説き、過度を戒めた。

ディオニュソスは過度に振舞うことを勧めているので、侵犯を意味していることがわかる。アポロは過度を慎むように説いているので、労働を意味していることがわかる。ギリシャ神話を見ると、ニ-チェが言うように、「ディオニュソス的なるもの」と「アポロ的なるもの」がいかに対立しているかが伺えられる。

先に提示したニ-チェの言葉には、芸術の中にディオニュソスとアポロという概念の存在を見出しただけではなく、芸術に対する取り組み方にもこの対立概念を導入している。三島はこのことに注目し、『ニ-チェ』の中で適切な解釈を施しているので、引用したい。

「まず注目すべきは、この対概念の導入の仕方である。ディオニュソスとアポロの二元性を『論理的に洞察』するだけではなく、『直接的な確実さで直観』しなければならないと言われていることである。これは、ただ頭で理解するだけでなく、体でわかれといった程度の修辞ではない。ここで「直観」と言われているのは、ドイツ語のAnschauungであるが、そこにあるschauen(「観る」)という動詞からもわかるように、元来は感覚に、それも視覚に直接与えられたもの、理性的な認識によるいかなる意味づけやふるい分けに先立って我々に見えてくる世界の姿のことである」(66ペ-ジ)。

三島は、ディオニュソスとアポロの二元性を「論理的に洞察(論理的に認識)」するだけではなく、「直接的な確実さで直観(直接直観によって確証すること)」しなければならないことを強調している。私は、「論理的に洞察」がアポロを意味して、「直接的な確実さで直観」がディオニュソスを意味しているのではないかと思う。確かに、ニ-チェの文章からはこの様なことは読み取れない。しかし、芸術を創る人間だけでなく、芸術作品を見る側にも、ディオニュソスとアポロの二元性を導入することが重要であると、ニ-チェは言いたかったのではなかろうか・・・。

ディオニュソスとアポロの存在が、単に神話上のことだけでなく、古代ギリシャの社会を基礎付けていたことは重要である。

西暦79年、二日二晩にわたるヴェスヴィオ火山の噴火により、ナポリに近いポンペイの町は灰に埋もれた。1748年から始められたこの町の発掘は、現在、町の約5分の4まで進んでいるという。町の中心には、バジリカ(裁判所)、アポロ神殿などの公共の施設がある広場があり、その周囲に商業地区や住宅地区があった。アポロ神殿では心臓をアポロ神に捧げる儀式がおこなわれていた。

町の西の外れに、当時の金持ちの別荘がある。この秘儀荘と呼ばれる別荘には、浴場、居間、奴隷の部屋、葡萄酒を絞る部屋など約40余りの部屋があるが、そのうちのサロンと思われる部屋の壁に「ディオニュソスの秘技図」が描かれている。この壁画は紀元前1年の中頃に描かれたものである。そこには、入信に来た乙女がその秘儀を見て、恥ずかしさを感じ、逃げる姿や、バッコスの巫女たちが頭につたの冠をつけて裸で踊る姿、布が被せられている大きな男根の像の周りに手をさしのべる信者の姿、ディオニュソスとアリアドネの姿などが描かれている。

エロティックな絵画はこの秘儀荘以外にも見られる。巫女メナ-デが酒に酔い潰れ、乳房を露出して眠っている姿や、森の中で行なわれているオルギア(orgia)の光景、正常位・後背位・女性上位の性交の場面などが、チタリスタやメレアグロなどの家の壁に描かれている。

当時、ディオニュソス神を信仰することは禁止されていた。しかし、今日ポンペイの遺蹟で見られるエロティックな壁画は、当時の信仰を物語っているが、禁じられていたディオニュソス信仰は、密室の部屋でおこなわれていた。アポロ信仰が公におこなわれていたこととは対照的である。また、このエロティックな信仰は、エロティックな調度芸術を作っていた古代人の生活とも異なっている。すなわち、時代の流れとともに、エロティックな芸術が密室の中などの特定の場所で、非常に小さな組織の中で存在していた、ということである。しかし、当時のポンペイの人々の生活がエロティックなものであったことに変わりはない。なぜなら、円形闘技場で行なわれた奴隷や罪人の殺し合いや、下水道の完備の不在がもたらす汚物と汚水の中での生活により、死と腐敗がポンペイの人々の生活に浸透していたからである。


=註=
※略記号

L.E.
Les larmes d’Eros
《10/18》

Er.
『エロティシズム』
(バタイユ著作集 第7巻)
澁澤龍彦訳、二見書房、1973

A.C.2
ジョルジュ・バタイユ著作集 第15巻
「神秘/芸術/科学 -社会科学論集2-」
山本功訳、二見書房、1973



ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』について

2008年8月24日 日曜日

『マダム・エドワルダ(Madame Edwaruda)』は1941年および1945年に、それぞれ50部限定の私家版として刊行された。その後の1956年に、ポ-ヴェ-ル書店から1500部限定で再度刊行されている。1987年に57歳の若さで亡くなった澁澤龍彦は、1956年版の『マダム・エドワルダ』の体裁について、「セルロイドの箱に入っている。表紙は緑色の羅紗みたいな、けばけばした布地で、そこに桃色の長方形の紙が貼ってあり、小さく白抜きでMadameEdwarda(エドワルダ夫人)と刷ってある。裏表紙も同じように、桃色の紙が貼ってあり、そこにラテン語で小さくDivinus Deus(聖なる神)と刷り込んである」と述べている。バタイユはこの作品に対して、ヴィジュアルを重視していると思われる。このことは、本文における文章間での間の取り方を見ても分かる。また、原稿用紙30枚程度に納まってしまうその内容にしては、1500フラン(旧フラン)と、当時としては恐ろしく高価なものであった。

バタイユは『聖なる神』三部作の第一部として『マダム・エドワルダ』を書いていたらしく、続く第二部『わが母』、第三部『シャルロット・ダンジェルヴィル』はいずれも未完である。『マダム・エドワルダ』序文の「エロティシズムに関する逆説(Paradoxe sur l’ rotisume)」は、『N・R・F』誌の1955年5月号に発表されたものであるが、この三部作の巻末論文の原形であるとされている。

バタイユはピエ-ル・アンジェリックの匿名を用いて『マダム・エドワルダ』を発表しており、この作品の作者とその序文の筆者とが同一人物であることは、この当時知られていなかった。これが公にされたのは、彼の死後のことである。澁澤龍彦も生田耕作もこのことに薄々気付いていた。バタイユがこのことを秘密にしていたのは、彼が「書物による風俗壊乱」の罪を意識していたことを意味している。この当時の彼は、オルレアンの図書館長をしていたので、公務員の服務規定に抵触するというわけである。 このように『マダム・エドワルダ』はその刊行において謎の多かった作品であり、また三部作としては未完である。このような謎が作品の幻想性を高めているようにも思える。

バタイユが彼の職を気にするほど、この作品は危険なものだったのだろうか。『マダム・エドワルダ』の文中でエロティックだと思われる文章を抜き出しながら、この作品を要約してみるので、読者各自でこのことについて判断してほしい。

主人公ピエ-ル・アンジェリックはバ-を渡り歩き、酔いながら娼家「レ・グラ-ス」に入り、娼婦マダム・エドワルダを選ぶ。彼は「神」を前にしたときのように惨めな思いをしながら、彼女と淫蕩な快楽に耽る欲望にかられる。エドワルダは「両手でテ-ブルにすがりついたまま(中略)彼女は片脚を高々と持ち上げていた。それをいっそう拡げるために、両手で皮膚を思いきり引っぱり(中略)生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛸」(M.E.191)を彼の前にさらけだす。自分が「神」であることを告白した彼女は、彼にクンニリングスをさせる。二人は娼婦の部屋入り》の儀式をし、性愛行動を堪能する。その後二人は外に出る。サン・ドニ門の下でマダム・エドワルダはエロティックな光景を生み出す。この雰囲気に酔い痴れながら、二人はタクシ-に乗り込み、《中央市場》を目指す。エドワルダは素っ裸になり、タクシ-を止める。彼女は運転手に「抱きつき、唇に接吻し、片手でズボンの中をまさぐった。引き出したのは、長い嵩ばったしろものだった。(中略)馬乗りのエドワルダは、髪をふり乱し、上体を伸ばして、頭をうしろにのけぞらせていた」(M.E.212-213)。二人の情事がすみ、タクシ-の中でこの三人は眠りに入る。最初に目を覚ましたアンジェリックが、死への期待を感じながら、この物語は終わる。 この作品の特徴は、ただ単にエロティックでないところにある。すなわち、この作品はエロティックな文面と合わせて、形而上学の要素が織り込まれている。このことについて、澁澤は次のように述べている。「接続詞の極度に少ない簡潔な断絶的な文体といい、残忍な形而上的なイメ-ジといい、ここには、あのバタイユを思わせるものがすべて揃っている。暗黒の中から次々と立ちあらわれてくる、瞬間的な、血を滴らすような、奇妙に生ま生ましい凝集力にみちた『エドワルダ夫人』の文体は、サルトルによって「二十世紀の神秘家」と評されたあのバタイユ以外には、いかなる現代作家にも書けるものではないはずだ、という気がされてくる」。 さらに 「エロティックな描写のなかに大文字の「神」などと言う言葉が、突如として飛び出してきたりする。おそろしく卑猥で、おそろしく神聖な観念がごちゃまぜになって、あたかも真っ暗な夜のなかを恍惚として漂っているかのような、何とも説明のつかない秘密めいた、これは一種の内的体験に即した哲学小説なのだ。哲学のオルガスムとでも言うべきか」。 このように、澁澤は『マダム・エドワルダ』の中に形而上学的なもの、哲学的なものを見ている。次に、このことについて詳しく見ていきたい。

この作品には注目したい単語が幾つかある。例えば、「傷口(la blessure)」はヴァギナの暗喩であるし、「神」という単語の多くは大文字で表わされているので重要といえる。また、「沈黙(le silence)」や「身震い(trembler)」「夜(la nuit)」は文中において頻繁に出てくる単語である。

マダム・エドワルダの行動や様子を示す単語に「glisser」が出てくる。この単語は通常「滑る」と訳されるが、この作品では「ゆるやか」「陥没」「埋没」「なかへ導く」などと訳されている。結論を言えば、この単語は「ヴァギナへの挿入」を意味している。ぬるぬる「滑る」ことが極度の快楽を導き、止めることができないこと(すなわち不可能なこと)を表わしているのである。この単語を含む文章が表わしている情景を、娼婦の行動と同一視すれば、この作品が描いているものがよく分かる。

「苦悩(l’angoisse)」という単語は、主に語り手であるアンジェリックを主体にしている。すなわち、アンジェリックの苦悩には、「l’angoisse」を用い、エドワルダの苦悩には、「la souffrance」が用いられている、ということである。しかし、この提言には難点が一つある。それは、「世界と彼女のなかの苦悩(le monde et l’angoisse en elle)」(M.E.203、Mme.E.25)という文中の「苦悩」の解し方である。ここでの「l’angoisse」の主体は、エドワルダである。そこで、「l’angoisse」を精神的な苦悩として、「la souffance」を肉体的な苦悩として解釈してみた。このように見ると、後者の訳語には「苦痛」が適しているのではなかろうか、と思う。また、ここにおもしろい関係があらわれてくる。それは、主に、男の苦悩は精神的なもので、女の苦悩は肉体的なもの(すなわち苦痛)であるという関係である。ただし、バタイユがこのことに気付いて著述していたかどうかは疑問である。

「夜(la nuit)」という単語は、この単語自体バタイユの思想のキ-・ワ-ドである。彼は夜と裸とを同一視している。『マダム・エドワルダ』の中にも「おれも夜のように裸になりたかった」(M.E.188)とある。このからくりは単純な言葉遊びである。つまり、「nu-it(夜)」のスペルの中には「nu(裸)」があるということである。この結果、「夜」が二重の意味に使われていることがわかる。すなわち、時間的な意味での「夜」と、裸の娼婦エドワルダを暗喩している「夜」という二重である。夜の静けさは娼婦の沈黙(la silence であり、夜の寒さに震えるように、男は娼婦の沈黙に震える(trembler)のである。

訳本の中で、彼女という単語が鍵括弧で表わされている箇所がある(M.E.200)。これは原文で、elle(彼女)が文章の頭でないにもかかわらず、単語の頭文字が大文字になっている(Elle)ことによる。これは、「娼婦=神」という意味を表わしている。このことについてバタイユは、娼婦が「神」であることを皮肉の意味に解するのは誤りだ、と言及している(M.E.206)。続けて彼は、「厳密に言えば、おれの悲しみを笑わなければならないことは、おれにとってありがたい。傷付いた心の持ち主だけが、おれの言うことを聞き入れてくれる。決して癒そうとはしなかった、不治の傷を負ったものだけが・・・」(Mme.E.26)という。バタイユの頭の中では、キリスト教と生物学の知識とが混在していると考えるのは、私の読み過ぎであろうか・・・。

バタイユが「無意味」「神」「笑い」「狂気」について語るとき、彼はニ-チェの「無意味への喜び」を念頭に入れているのではなかろうか。ニ-チェの著作『人間的な、あまりに人間的な自由な精神のための書』の213 番の中に、「我々が戯れ、かつ笑うのは、予期されたことが(これは通常は不安と緊張感を引き起こすものであるが)なんの実害もないかたちで発散されるときである」という言葉がある。この言葉を文学的な表現(しかもポルノグラフィ-)で表わしたものが、バタイユの『マダム・エドワルダ』なのではなかろうか。

毎朝、私たちは目覚め、働いたり、戯れたりする。このような人間の営みに、何の意味があるのだろうか。そして、私たち自身の存在が無意味なのではなかろうか。つまり、私たちは狂人のように、無意味(non-sens)に行動しているのである。美辞麗句が無益であるように(すなわち、美しく振舞うことが無益であるように)、「おれの営みは無益である(j’ai beau faire)」(M.E.216、Mme.E.30)。このように見ていくと、私たちの営みは正気を失った(狂気)ものにしか分かってもらえそうにない。だから、このことは不治の傷を負ったもの(瀕死の人間)にしか分からない。すなわち、傷(la blessure)のある人間と、そして彼女の傷口(la blessure)に己自身を滑り込ませ(glisser)、「理由もわからず、寒気で、震え(tremblant)つづけ」(M.E.216)る人間、「無限の拡がりに、暗闇(la nuit)にとりまかれ」(M.E.216)存在している人間とにしか分からない、ということである。そしてバタイユは、神がこのことを知っているかと信心家などに問い掛け、「もしご存知とすれば、神は豚にも等しい野郎であろう」(M.E.217)と言い放つ。彼はこの言葉について、付注を設けて解説している。

この付註を含めて、この作品を最後まで読んだ読者の中には、猥褻性と哲学性とが混濁した内容に、深い思慮を巡らす人もいるだろう。しかし、この付注には、この物語の「裏の」結末が隠されている気がしてならない。

「神は豚にも等しい野郎」について、バタイユは「まさに、悪戯で濡れている、《髪を乱した》神を想定している」(Mme.E.31)と前置きした後、このような神が「彼方へ、一切の彼方へ、さらに、さらに先まで」(M.E.219)、「空虚以上の陶酔の中で」(Mme.E.31)、観念を見極めるだろう、と述べている。またバタイユは、神のこのような状態に、「人間性があるのだろうか」(Mme.E.31)と疑問視している。彼のこの問い掛けに対する答えは、おそらくノ-であろう(そもそも、神に対して人間性を問うこと自体がおかしいのではなかろうか)。もしそうだとすれば、神にあるのは動物性か、聖性である。そして、「神は豚にも等しい」のだから、神にあるのは動物性のほうである。ここで、「俺は顫えている(JE TREMBLE)」という言葉に注目したい。この付註では、この言葉と「神自身(LUI-M ME)」という単語だけが大文字で表わされており、この二つには共通性がある。つまり、動物性を帯びた神は、身震いしている著者自身である、ということである。

このようにして私たちは、著者が人間の無意味な活動について説明するために、悪戯で濡れながら、髪を乱して陶酔状態に向かっている、と考えることができる。もっと詳しく説明するなら、男が女の傷口に己自身を滑り込ませ、濡れながら、髪を乱して、身震いするように、著者がこの作品を身震いしながら書いている姿を、私たちは思い浮かべることができる、ということである。もっともここでは、情交で身震いしているというよりも、マスタ-ベ-ション(masturbation)で身震いしていると言ったほうが、正確かも知れない。よって『マダム・エドワルダ』の「裏の」結末とは、この作品の読者は、バタイユがマスタ-ベ-ションをしている姿を見ながら、無意味について書かれたこの作品について形而上学的に考察してきた、ということである。結局私たちは、糞真面目に解読するという無駄なエネルギ-を使うことにより、バタイユの提出した「人間の無益な活動」というテ-マについて、身を持って知ることができたのである。

『マダム・エドワルダ』は、そのわけの分からない猥褻さに言葉を濁しながら思慮を巡らす読者と、著者のマスタ-ベ-ションを見ていることに気付き、爆笑する読者とを生み出す、おもしろい作品である。


=註=
※略記号

M.E.
「マダム・エドワルダ」
(『眼球譚、マダム・エドワルダ』生田耕作コレクション1)
生田耕作訳、白水社、1988

Mme E.
Madame Edwarda
Œuvres complètes de G.Bataille, III, Gallimard, 1971



シネマ『モーターサイクル・ダイアリーズ(2004)』

2008年7月27日 日曜日

20世紀の偉大な革命家エルネスト・ゲバラが青春時代に南アメリアをオートバイでまわる放浪の旅を映像化したこの作品は、南米大陸の自然とそこに生きる人々を美しく、そして哀しく描いている。

ラテンの陽気な音楽と踊り、そして人々の愛の中でゲバラとアルベルト・グラナードは旅をする。旅中でゲバラが感じたこと、思ったこと、その後の人生を暗示させる情念がオートバイで走る道や砂漠や雪のなかでの道なき道、ハンセン病患者たちを隔離している川と重なり、彼の人格が様々な風景で表現されている。

ゲバラが処刑されてから40年あまり経つが、彼が活躍した時代も現在も人権をないがしろにする悲しい出来事は途絶えることなく続いている。ソビエト連邦の共産主義が崩壊し、中国型の共産主義は多くの官僚たちの腐敗や各地で勃発している暴動、そして深刻な環境汚染で先は長くないかもしれない。イギリスの経済学者スーザン・ストレンジが1986年に『カジノ資本主義』を著してから20年、アメリカ型資本主義はその贖罪を受けつつある。日本のような官僚主義国家は、このままでは世界から取り残されてしまうだろう。このような、世界情勢の中で、ゲバラが志し夢見たものを今一度見直してみるのも悪くないだろう。








ジョルジュ・バタイユについて

2008年6月2日 月曜日

バタイユは生涯を通して図書館司書であり続け、しかも太陽を直視し続けた。太陽はバタイユにとって女性の性器の象徴であり、エロティックな存在であった。

「昼間は公務員で、夜は乱行パーティーの主催者」というレッテルの貼られいた彼は、生前にはあまり評価されなかった人物である。1962年にバタイユは他界した。死因はニーチェと同じく梅毒という噂もあったが、定かではない。

バタイユの「知」は「体験」である。それ故に、彼にとっては神秘的な体験から得られたものも知識となる。この神秘的な体験から得られたものを論理的に説明することが、困難だとしても・・・。

このような彼の考え方は、デカルト的コギトの上をいく。バタイユは科学を冷静な目でみており、科学的真理を容認し、この真理の応用に慎重な態度で接している彼の逆説的哲学は、非合理主義と結び付いているが故に、バタイユには反科学主義者の嫌いがあるが、このような認識は誤りである。彼は科学を全面的に否定しているのではない。その証拠に、バタイユは自然科学の知識を自己の言説に多く活用している。例えば、『クリティク』誌1947年4月号(第11号)に載せられた彼の論文「性とはなにか」(A.C.2,p.327-p.344)などが挙げられるし、彼の著書『呪われた部分』は、ジョルジュ・アンブロジーノに負うところの多いものになっていると、バタイユ自信も言っている(P.M.,p.18)。

バタイユの「知識」観に神秘主義のレッテルをはり、彼を酷使した人がいる。ジャン・ポール・サルトルがその人である。サルトルは1943年の「カイエ・デュ・シュッド」誌260-262号に『新しい神秘家』というタイトルで評論を書き、バタイユの非合理主義的な面を暴露している。しかしバタイユが批判するように、サルトルの考え方は非難されるべきものであろう。

バタイユのサルトルに対する批判とは、「私」と「世界」との関係によって作られる絶望感、という感情において、「サルトルのような人はこんな気分にはまず陥らない」ということである。またバタイユは、「何も知らないのなら、知らないと一度言えばそれでたくさんだ」というサルトルの考えに対し、「鍵をかけたトランクの中に何があるか知らない、その鍵を開けることもできない者の立場、と言いましょうか。必要上言わねばならぬこと以上のものが込められた文学的言語が用いられるのはこのときです」(N.S.,p.16)と言及している。

バタイユの死後、ガリマール社から彼の全集が刊行された。その第一巻の序文の中で、ミシェル・フーコーはバタイユのことを「今日、今世紀で最も重要な著作家の一人である(On le sait aujourd´hui: Bataille est un des crivains les plus importants de son si cle.)」と表している。

フーコーやジャック・デリダ、ボードリヤール等がバタイユを評価したことにより、フランスでは、バタイユの作品は一時期バイブルのように読まれたそうである。生前には非合法な形でしか出版されず、ほんの一部の人しか手にすることのできなかった彼の作品の一部も、ガリマール社のおかげで多くの人に読まれるようになった。日本でもバタイユの作品は翻訳されてはいるものの、彼に共感をもっているひとは、ほとんどが文学畑の人たちである(もっとも、彼らがバタイユの思想を正確に理解していると思えない)。このことは、職業的学者ではない彼の身分と、彼の作品の多くがタブーを対象にしたものであり、かつ難解でもあることが、その原因であると思われる。しかし、彼は図書館司書という身分を利用して、多くの発禁本や図画を目にしている。このことから導き出されたバタイユの思想は、多くの人が未だ触れずにいることを体験させてくれる新しい思考法を生み出している。この思考法は人類の可能性をより大きくするために重要なものであり、日本でももっと理解されてもいいのではなかろうか・・・。

バタイユは文学的な表現を学術的な表現よりも価値のあるものと考えていた。そして詩的な表現は、文学的な表現の中でも特に崇高な表現である。またバタイユは言説によってはなにものも正確に表現することはできないと考えていた。それ故に、書くことに罪をおぼえながら筆をとっていたバタイユの作品は、難解と言われる。しかしバタイユのそのような作品も、言語を理解することに罪をおぼえながら読んでいけば、彼の思想をありのままに体験することができるのではなかろうか。

バタイユは心の優しく、寛大で、おちゃめな人物であった。これがボクのバタイユ像である。20世紀初期の画家アメディオ・モディリア-ニは、毒のある(diabolique)人物だったと言われているが、実際の彼は心の優しいダンディ-な男であった。バタイユには毒のある人物というイメ-ジがあるが、モディリア-ニと同じことが言えるのではなかろうか。


=註=
※略記号

A.C.2
ジョルジュ・バタイユ著作集 第15巻
「神秘/芸術/科学 -社会科学論集2-」
山本功訳、二見書房、1973

P.M.
『呪われた部分』
生田耕作訳、二見書房、1973

N.S.
『<非-知>閉じざる思考』
西谷修訳、哲学書房、1986



死に向かう日本

2008年5月9日 金曜日

ここ数日の間に二人の女子高生が殺された。娘と歳が近いこともあり、他人事とは思えず心が痛む。そのうちの一件は、なじみの福知山と近い舞鶴でおこり、悲しみもより大きい。

日本の未来を担う若い命が失われることには、無慈悲な現代の日本社会と強くリンクしているだろう。官僚制に固執する怠惰な日本の行政と既得権益を貪る一部の政治家が、ボクたちの生活を脅かしている。犠牲となった彼女たちはその象徴のような気がしてならない。





Pages: 1 2 Next