2009年11月 のアーカイブ

ジョルジュ・バタイユ ママン - クリストフ・オノレ

2009年11月23日 月曜日

煌めく星夜の下
聖なる母が太古の呪術を
子どもたちに手ほどきする。

過去と未来を繋ぐ太陽の塔は
牧歌的な大地と乾いた夜に
儚い宴の日々を懐かしむ

こうして眩い光と歓喜の中で
血と涙を流す
底無しの愛を求めるが故に
ジョルジュ・バタイユ ママン [DVD]ジョルジュ・バタイユ ママン [DVD]
アット エンタテインメント 2007-03-02
出演: イザベル・ユペール, ルイ・ガレル

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苔盆栽@参宮橋 隆龍

2009年11月23日 月曜日

参宮橋 隆龍 2009年11月21日

使用カメラ:PENTAX K-m
使用レンズ:TAMRON A09 ( SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO )


和みを隆龍で味わう

※写真をクリックすると拡大してご覧になれます。



Feudo Monaci@外苑前クリムゾン | ワイン

2009年11月20日 金曜日

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Feudo Monaci
PRIMITIVO
SALENTO
2009
イタリア
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Feudo Monaciさんのワイン。男らしい素敵なワインです。ヌーボーと言えば、ボジョレーヌーボーだけど、イタリアの新種もいいですよ。

ボジョレーヌーボーJoseph Drouhin@外苑前クリムゾン | ワイン

2009年11月20日 金曜日

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Joseph Drouhin
2009
フランス
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ボジョレーヌーボーの第二段は、タンニン、酸味とも少し強めのワイン。ブルゴーニュの作り手ジョセフ ドゥルーアンのボジョレーヌーボー。Tommnチーズとともに嗜みました。

ボジョレーヌーボーChateaux DES eyssards@外苑前クリムゾン | ワイン

2009年11月20日 金曜日

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Chateaux DES eyssards
2005
フランス
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メルロー、カベルネソーベニオン、カベルネフランがブレンドされたワイン。黒いチェリーの風味がいかされたコクのあるワインです。

ハンガー - トニー・スコット

2009年11月15日 日曜日

血に飢えた者たちは
現実の世界から遠ざかる。

薄暗い部屋にピアノの音。
ここはもうこの世ではない…

この映画を観ると
美の世界と俗世間との不仲を感じる。
吸血鬼の優雅さと暗鬱さゆえに。
ハンガー [DVD]ハンガー [DVD]ホイットリー・ストリーバー

ワーナー・ホーム・ビデオ 2005-09-02
出演: カトリーヌ・ドヌーヴ, デヴィッド・ボウイ, スーザン・サランドン

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Red Mecca 動画 : Love will tear us apart

2009年11月14日 土曜日

先日のライブ映像です。


ジョルジュ・バタイユについて:ジル・ド・レ、サド侯爵とモダンアート

2009年11月8日 日曜日

15世紀、キリスト教が支配するこの世界にも、エロティックな歴史は続く。
 ジル・ド・レ(Gilles de Rais)は、1404年にブルタ-ニュ地方の封建領主の家に生まれ、1440年に、幼児虐殺と魔術実践の罪で逮捕され、ナントにおいて処刑された。オルレアン解放戦でジャンヌ・ダルクの右腕となって猛名をはせた彼は、25歳の若さでフランス王国陸軍元帥になる。しかし、1432年から処刑されるまでの8年間、彼は底抜けの濫費による破産、幼児虐殺、魔術と錬金術への耽溺の日々を送った。彼の死後、その邸宅から二百余りの人の遺骸が発掘されたという。また、シャルル・ペロ-の『青髭』のモデルは彼である。

このような彼の生涯で特徴的なことは、法外な濫費と、性的倒錯をかねた幼児虐殺である。彼の幼児虐殺の内容は、彼の生け贄の多くがジャンヌ・ダルクに捧げられていることにその特徴がある。彼の従僕ポワトゥ-の世俗裁判所に対する証言によれば、ジル・ド・レは自分の勃起したペニスを、ジャンヌ・ダルクに似た男の子や女の子の腹の上に擦りつけたり、肛門に挿入したりして射精し、この快楽の後、この子供達の首を刎ねては喜んでいた。また彼は、跳ねた首の数々を煖炉の上に並べ、その美しさを物色していたのである。

バタイユが『ジル・ド・レ論』の中で指摘するように、ジル・ド・レの理解不可能な行為は、12世紀の貴族や騎士なら理解できたであろう。1949年の「クリティック」誌38号で、バタイユは中世騎士道の倫理について述べている。彼は「中世の騎士は、キリスト教社会のなかに嵌めこまれて、一情熱へのこの排他的な崇敬に没頭することができないまま、それでも倫理的な次元では、魅惑する情熱の人間だった」(A.C.2,273)とし、中世騎士道の倫理が、魅惑的な情熱というエロティシズムの聖なる力で支えられていたことを、武勲詩や「円卓物語」の中に認めている。バタイユは騎士の聖なる力について次のように述べている。

「それは、ひと殺しや屠殺場でのけものの屠殺とは直接には異ならない闘争の荒々しさのうちに、端的に実現されるものである。陋劣な喧嘩や刃傷沙汰や性犯罪も、聖なるものに結びつくが、さもしい形でであり、殺人者を、非弁別的でいわば無限定な人間のさもしさの水準に位置づけるものである。規律や掟の不在性、すなわち、いかなる戒律によっても支配されていない陋劣な内在性に、対応するさもしさである。原則として、闘争的な殺人行為は、容易に捕虜や男女の非戦闘員の殺戮へとずれるものとして、人間性に内在するおぞましさに属するものだ」(太字は原文の傍点、A.C.2,278-279)。

中世騎士たちの卑劣で見苦しい倫理観は、オルレアン解放戦でジャンヌ・ダルクの右腕となって猛名をはせたジル・ド・レの殺戮、しかもセクシュアリテな行動をともなう、エネルギ-の無際限な濫費に、共鳴しているのである。

シャルトル大聖堂のように、無限に天空へと昇っていくかのような、至高の精神の持ち主であったジル・ド・レのような人は、時代遅れの田舎貴族でしかなかった。ゴシック芸術の時代からルネサンスへと移行する狭間に生まれてしまった彼の生涯は、ゴシック芸術の精神と共に焔の中に消えていった。

16世紀末のハンガリ-に生きた伯爵夫人エリザベ-ト・バトリ-(Elizabeth Báthory)は、ジル・ド・レの残酷性を越えていた。枢機卿やトランシルブァニア公、ハンガリ-の宰相などを輩出していたバトリ-家は、財産の分散を防ぐため、近親婚を繰り返していた。エリザベ-トの両親はいとこ同志である。彼女の兄は色情狂、伯父は悪魔崇拝者であり、伯母はレズビアンであったという。また、バトリ-家の紋章は狼の牙をかたどったものであり、彼女の周りの環境は血と死のエロティシズムでみたされていた。

エリザベ-トは幾人もの男と情を交し、自分の美しさに興奮していく男の様を見ては、楽しんでいたそうである。しかし、彼女の快楽は情交では得られなかったようである。彼女は自分の美しくさを保つことで得られる快楽のために、多くの血を浴びるようになった。エリザベ-トはある装置を作らせ、そこに娘たちを入れ、血のシャワ-を浴びていた。また彼女は、4人から9人の娘の血を張った浴槽にその身を浸していたのである。彼女の犠牲になった娘は600 人を越えるという。

エリザベ-ト・バトリ-が生きた16世紀末に、現在マニエリスムと呼ばれる絵画が登場してくる。フランスのマニエリスムの代表作にフォンテ-ヌブロ-派の『ガブリエル・デストレとその妹』があるのでとりあげてみたい。作者不詳のこの絵は、「二人の若い貴婦人が並んで一つの浴槽に入っている図で、その一人がもう一人の乳首を指でつまんでいる。これは、その乳首にふれられている女、アンリ四世の寵妃ガブリエル・デストレが、妊娠していることを暗示しているのだそうである」(澁澤龍彦著『エロスの解剖』河出書房新社、1965、139ペ-ジ)。この絵が「認められるようになったのは比較的近年である。エロチック故に、みんな見て見ないふりをしていたに違いない。つまんだ乳首がぽろりと落ちそうな気に誘われる」(池田満寿夫談、『文藝春秋』昭和60年12月特別号、収録)。長い間、バトリ-の孤独な晩年のように闇の中に埋もれていたこの絵も、最近では、エロティシズム絵画を語るときに欠かせない存在である。故に、「エロティシズムは全体において一つの組織された活動であり、それが各時代に変化するのは、組織された程度によってである」(Er.156)ことが言える。

バタイユはジル・ド・レとエリザベ-ト・バトリ-の残酷さから、サドを連想している。

18世紀の作家マルキ・ド・サド(Marquis de Sade)は本名をドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サドといい、1740年から1814年までの74年間の生涯のうち通算27年を監獄で過ごしている。この投獄は、アルクイユ事件、マルセイユ事件などにおける毒殺未遂、後背位性交、風俗壊乱などの罪によるものである。サド家はブルボン王家につながる宮廷貴族コンデ家と血縁関係がある。彼の作品には、殺人、鞭打ち、強姦、嗜血などの場面が数多く出てくるが故に、20世紀に入るまで評価されなかった。しかし、彼の作品をエロ文学として読むのは誤りである。

1797年、サドは全四巻からなる小説『新ジュスティ-ヌあるいは美徳の不幸』を出版する。その内容は、両親の破産により一文無しになった主人公ジュスティ-ヌの敬虔な美徳が、多くの悪者の快楽の対象となり、結果的には彼女自身も多くの罪を犯すはめになる物語である。この小説は姉妹小説の片割れであり、彼女の姉ジュリエットを主人公にした全六巻からなる『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』が同じ1797年に出版されている。作品の題名からもわかるように、姉のジュリエットは自ら悪徳を働き、社会的な地位を獲得していく物語である。

この姉妹本の特徴は、人間の残酷を描いていることである。また、これはサドの著作全てに言えることであるが、物語の随所に、自然・神・道徳などについての彼の哲学が盛り込まれている。そのサドの哲学は、自然・神・道徳など、18世紀の全ての思想を否定している。この意味において、サドは18世紀の思想を全て反映しているといえる。

サドの小説のように、18世紀末のフランスは混乱(libertinage)していた。華美な服装やポルノグラフィ-が流行していた。1789年にはバスティ-ユ襲撃があり、フランス革命が始まっている。フランス革命は穏健派のジロンド派と急進派のジャコバン派との争いへと発展し、国民公会で指導権を握った後者は恐怖政治と呼ばれる革命的テロリズムを強行している。サドは、この革命で多くの実力者たちが絞首刑に処せられているのを目の当りにしていた。実際にサドも、1794年7月27日(熱月九日)の際に、死刑にされるところであった。こうしてサドは,より恐ろしい叫びと血塗れの肉体を物語るに至る。

このように混乱したフランスにおいて、この時代を反映しているサドのポルノグラフィ-は禁止の対象となっていた。サドは自分の姉妹本の著者を、「すでに死亡した作者の筆による」と偽っていた。この様に、サドが匿名にしていたにもかかわらず、1801年に、出版元であるマッセ書店が警察の捜査を受け、この書店に居合わせたサドは、その場で逮捕された。サドが逮捕された理由は、彼が文学史における、コペルニクス的転回を果たしたからである。このことの意味は、バタイユの次の言葉で表わされる。

「サドより以前に、勃起および射精の反射作用と法の違犯とを結びつける一般的なメカニズムを捉えた者は、ひとりもいなかった」(太字は原文の傍点、Er.288)。

サドは、エロティシズムがタブ-として闇に葬られるように、多くの実力者が闇に葬られるのを見て、「恐怖と混り合った変則的なものの学説を展開した」(太字は原文の傍点、Er.289)のである。「何が正気で何が狂気か、何が善で何が悪か」という問いは、現在では、夜の闇へとむかう犠牲者となっている。何に対する犠牲者か。それは人類の否定に対する犠牲者である。私のこの言葉は、おそらく、サドの著作を愛読している者なら解かってもらえるだろう。サドの著作を愛読している者以外の私の読者に対しては、次のように言うことができる。“ノ-マル(normal)なものとアブノ-マル(abnormal)なものとの間には、絶対的な境界線はない。そして、この不安定さ(揺らぎ)が社会秩序を維持している”。キリスト教が祝福するような性交は欺瞞である。また、戦争に見られるように、殺人は必ずしも悪とはならない・・・。

この当時の代表的な画家として、サドより6歳年下のフランシスコ・ゴヤ(Francisco Goya)が挙げられる。バタイユは、サドの監獄での生活とゴヤの聾とに、孤独からくる過度の苦痛に対する強迫観念を、二人に共通の特徴と考え、「ゴヤはサドのように、苦痛と快楽とを結びつけはしなかった。とはいえ、ゴヤの死と苦痛に対する強迫観念(hantise)には、これらをエロティシズムに類縁づける痙攣的な激烈さ(violence)があった」(澁澤龍彦著『幻想の彼方へ』河出書房新社、1988、209ペ-ジおよびL.E.106)と述べている。サドの監獄での孤独とゴヤの聾による孤独は、二人に、吹き上げる嵐の後の悲しみをもたらしていた。彼らの作品は人類の孤独な影のしるしである。 ゴヤの有名な絵の一つに『裸のマハ』と『着衣のマハ』がある。アンドレ・マルロ-によれば、普通の裸婦像が始めから衣服をはねつけているのに対して、ゴヤのマハは今迄着ていたい服を捨てるところに、その差異があるという(澁澤龍彦、前掲書、217ペ-ジ)。つまり、ゴヤのエロティシズムは、「私たちが互いに着物を着ることによって保っている礼儀作法を破壊」(太字は論者、Er.248)しているのである。この点で、サドとゴヤは一致する。サドとゴヤのエロティシズムは、キリストの神と対置する変則的なものという怪物たち(freaks)を創作してきたのである。どうやら、ゴヤが『魔女のサバト』のようなディオニュソスを連想させる作品を多く描いた理由は、ここにありそうである。

サドが生きた時代の芸術は、ロココ調で支配されていた。その例として、フランソワ・ブ-シェ(François Boucher)の『オダリスク』(1743)を挙げてみたい。この絵の特徴は、その大胆なポ-ズにある。この絵のモデルである宮廷夫人が、閏房の中で、この時代では禁止されていた後背位性交を求めているかのように、こちらをうつろな眼差しで見ている、なんともエロティックな絵画であり、この当時のエロティックな時代を反映している。背景の濃紺のビロ-ドが、彼女の肌の色を鮮やかなものにし、液体的で神聖なエロティシズムを思わせる。この絵の題名であるオダリスク(L’Odalisque)はトルコ王宮のハレムの女のことであるが、エロティックな絵を描くための口実でしかない。

この当時の西洋絵画では、裸体を描くことは禁じられていない。ユダヤ・キリスト教的世界観における禁止の基準は、宗教的にみて風俗壊乱に当たるか否にある。この時代において人物を描くときには、聖書や神話の物語、歴史的な場面、理想化した人間を、それ相応の身分の人間をモデルとして描かなければならなかった。

このような偏見と戦った画家として、ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet)の名が挙げられる。1819年に生まれ1877年に亡くなったこの画家は、自分の眼にふれる周囲の現実を力強く直截に描いたので、今日「近代絵画の父」と言われている。フランス革命後の激動の時代を生きてきた彼は、ロマネスクの崩壊を感じ取り、レアリスムに固執した。ク-ルベの写実主義にはボ-ドレ-ルの影響があり、生身の肉体をもった女たちの姿を描いた彼の絵は、「悪の華」を連想させずにはいられない。

バタイユの著書『エロティシズム』が「美女殺し」と言われる(山田登世子「バタイユの美女殺し」現代思想第17巻第1号<青土社、1989年1月>36-51ペ-ジ)所以は、彼ら(ボ-ドレ-ルやク-ルベ)の芸術の系統を引いているからである。

ク-ルベは、生身の肉体をもった女たちの姿、すなわち生活における快楽や気苦労がにじみ出た女たちの姿を描いた。その例として『まどろむ麦刈り女』が挙げられる。体格のいい女がその乳房を露にして眠る姿を描いたその作品には、労働の後の疲れがよくあらわれている。ブルジョワ階級と思われる二人の若い女が抱き合いながら寝ている姿を描いた『眠り』(1866)は、ネックレスなどのアクセサリ-の存在が、彼女たちの生活を表わしている作品である。ク-ルベは17世紀の画家ベラスケスや同時代のドラクロア(彼はル-ベンスやゴヤの絵を手本としている)などの絵をテキストにして独学で学んだため、彼の筆のタッチには彼らの影響がみられる。しかし、彼の絵の美しさ、彼のエロティシズムは、生も死も、美も腐敗も、全てのものに対する現実を描き抱いたことにある。彼の現実を見る眼は、『世界の起源』(1866)や『白いストッキングの女』(1861年頃)などの、今日なら裏本や裏ビデオにしかならないようなエロティックな作品を生み出すに至る・・・。

1863年の作品に、マネの『オランピア』がある。オランピアとはギリシャ語で「気品」「威厳」を意味する言葉であり、この絵の雰囲気をよく表わしている。この絵に描かれている中肉中背の美しいスタイルをした女性は、全裸でベッドに横たわり、左手を右の腿の付け根にあてている。薄暗い背景が彼女の白い肌と白いベッドとを浮きあがられせ、宇宙空間を遊泳しているかのようである。しかし、この絵は当時の人々に受入れらなかったことはなかったが、大変なスキャンダルを巻き起こした。

作者であるエドゥアール・マネ(Edouard Manet)は、今日、印象派の父と言われ、パリと市民を描いたジャポニスムの画家として知られている。彼のこの絵のスキャンダル性は、遠近法を無視し、肉ずけを少なくして理想化を排除し、画面を平面化したことにある。この性質は彼のタブロ-全てにあてはまることである。彼は現実の姿を描きながら、画面の構成を重視し、人間の内面を描こうとした。彼のこの意図はク-ルベの影響によるものであり、後の印象派に受け継がれることになる。

マネの『オランピア』と同じ1863年に描かれた裸婦像として、19世紀アカデミズムの画家アレクサンドル・カバネルの『ヴィ-ナスの誕生』が挙げられる。愛らしい天使が飛びかう下で、薄く眼を開けながら海のベッドに横たわる裸婦は、その柔らかそうな肌色からも、エロティックなものを感じずにはいられない。しかしこの絵は、マネの絵のように、スキャンダルを起こすことはなかった。当時の禁止の枠組みに納まっていたからである。

1917年に一つの事件が起こった。ベルトウエ-ル画廊で開かれていたモディリア-ニの個展が、警察の手入れにより3時間で幕を閉じたのである。警察は、表のウインド-に飾られた裸婦が風紀を乱すとして、彼の初の個展を呪い、闇に葬ってしまった。

アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Modigliani)は、1906年から3年わたって、美しい線、リアルな肌色とモディリアネスクでもって、精力的に裸婦像を描いた。そのうちの5点が、彼初の個展で、禁止の対象となったのである。

モディリア-ニはディオニュソスのような人物であった。酒と女の悦楽の青春時代を送った彼は、毒のある(diabolique)人物だったと言われているが、実際の彼は心の優しいダンディ-な男であった。彼の人柄の良さは、ピカソ、キスリングなどの多くの友人がいたことに加え、アポリネ-ル、コクト-、ジャコブらが評価した彼の絵で証明できる。背景の赤い裸婦像は、ディオニュソスの秘儀図を連想させる。また、眼の色を背景や衣服の色と同化させる絵は、周囲の事物を見つめつづけ、それらと一体となる様を表現している。酒をくらい、芸術活動を通してオルギアを楽しむ、彼の古代的な作品が放つ、固体が液状化する時のような揺らぎをもったエロティシズムは、禁止を維持する側にとっては目障りな存在であった。そのような彼と、肉体的で神聖な心情のエロティシズムの中で生きた彼の恋人ジェンヌ・エビュテルヌの遺体は、聖なる生活をしたが故に、引き取る者がいないまま幾日か放置されたままであった・・・。

ピカソを描いた肖像画の中に「知性(savoir)」という文字を記したモディリア-ニは、ピカソの人柄をよく理解していた。事実ピカソは、10万作に及ぶ自分の作品のうち5万作を秘蔵し、作品価値の経済的コントロ-ルを行っていた。ピカソは、質的にはモディリア-ニと同じエロティシズムをもっていたし、量的には彼以上のものをもっていた。ミシェル・レリスは死ぬまぎわのインタビュ-で、ピカソが全てを芸術にする力をもっていたことと、彼が芸術を自分の楽しみで作っていた、ことを言及している。ピカソ自身「恋愛の情にかられて仕事をする」と自覚していたように、彼は膨大な量の肉体的で神聖な心情のエロティシズムで芸術活動をしていた。そのような情熱ゆえに、彼は自分のスタイルを破壊しつづけた上に、生殖器むきだしの絵を何枚も描いたのである・・・。

「冷静沈着のうちに犯される罪のほうが、熱狂的な感情とともに犯される罪よりもずっと偉大なのだ」(H.E.249)。

バタイユのこの言葉を絵にすれば、バルテュスの描くような絵になるに違いない。アルベ-ル・カミュ-がバルテュスのスタイルについて、「現実を修正するためには、(現代の多くの画家たちがしているように)現実に背を向けるのではなく、むしろ現実を利用しなければならないということを知っている」(澁澤龍彦著『幻想の彼方へ』河出書房新社、1988、89ペ-ジ)と云うように、バルテュスの絵は、現実を直視した画家ク-ルベのスタイルの延長線上にある。例えば『夢みるテレ-ズ』(1938)が挙げられる。長椅子に座る女の子が無意識にスカ-トの裾をあげているこの絵は、文字では表わせない微笑ましいエロティシズムを感じさせる。この微笑ましいエロティシズムを感じさせる他の作品に、『街路』(1933)、『窓』(1933)、『鏡にむかう猫』(1977-80)などが挙げられる。バルテュスの作品にはこの他にも、ディオニュソスの秘儀図を思わせる『朱いテ-ブルのある日本婦人』(1967-76)などの注目すべき、物語的な一種変わったエロティシズム絵画がある。彼のエロティシズムには、子供が何の気兼ねも無しに生命体を殺せるのと類似した、冷ややかなエネルギ-がある。現実は見れば見るほど気味の悪いものであるが、彼にはそれを感じない子供のような精神があるのだ。バルチュスの作品には子供のエロティシズムが詰まっている。童顔のアイドル・タレントの趣向者には、このようなエロティシズムが存在している。


=註=
※略記号

L.E.
Les larmes d’Eros
《10/18》

Er.
『エロティシズム』
(バタイユ著作集 第7巻)
澁澤龍彦訳、二見書房、1973

A.C.2
ジョルジュ・バタイユ著作集 第15巻
「神秘/芸術/科学 -社会科学論集2-」
山本功訳、二見書房、1973

H.E.
『エロティシズムの歴史』
湯浅博雄・中地義和訳、哲学書房、1989