『マダム・エドワルダ(Madame Edwaruda)』は1941年および1945年に、それぞれ50部限定の私家版として刊行された。その後の1956年に、ポ-ヴェ-ル書店から1500部限定で再度刊行されている。1987年に57歳の若さで亡くなった澁澤龍彦は、1956年版の『マダム・エドワルダ』の体裁について、「セルロイドの箱に入っている。表紙は緑色の羅紗みたいな、けばけばした布地で、そこに桃色の長方形の紙が貼ってあり、小さく白抜きでMadameEdwarda(エドワルダ夫人)と刷ってある。裏表紙も同じように、桃色の紙が貼ってあり、そこにラテン語で小さくDivinus Deus(聖なる神)と刷り込んである」と述べている。バタイユはこの作品に対して、ヴィジュアルを重視していると思われる。このことは、本文における文章間での間の取り方を見ても分かる。また、原稿用紙30枚程度に納まってしまうその内容にしては、1500フラン(旧フラン)と、当時としては恐ろしく高価なものであった。
バタイユは『聖なる神』三部作の第一部として『マダム・エドワルダ』を書いていたらしく、続く第二部『わが母』、第三部『シャルロット・ダンジェルヴィル』はいずれも未完である。『マダム・エドワルダ』序文の「エロティシズムに関する逆説(Paradoxe sur l' rotisume)」は、『N・R・F』誌の1955年5月号に発表されたものであるが、この三部作の巻末論文の原形であるとされている。
バタイユはピエ-ル・アンジェリックの匿名を用いて『マダム・エドワルダ』を発表しており、この作品の作者とその序文の筆者とが同一人物であることは、この当時知られていなかった。これが公にされたのは、彼の死後のことである。澁澤龍彦も生田耕作もこのことに薄々気付いていた。バタイユがこのことを秘密にしていたのは、彼が「書物による風俗壊乱」の罪を意識していたことを意味している。この当時の彼は、オルレアンの図書館長をしていたので、公務員の服務規定に抵触するというわけである。 このように『マダム・エドワルダ』はその刊行において謎の多かった作品であり、また三部作としては未完である。このような謎が作品の幻想性を高めているようにも思える。
バタイユが彼の職を気にするほど、この作品は危険なものだったのだろうか。『マダム・エドワルダ』の文中でエロティックだと思われる文章を抜き出しながら、この作品を要約してみるので、読者各自でこのことについて判断してほしい。
主人公ピエ-ル・アンジェリックはバ-を渡り歩き、酔いながら娼家「レ・グラ-ス」に入り、娼婦マダム・エドワルダを選ぶ。彼は「神」を前にしたときのように惨めな思いをしながら、彼女と淫蕩な快楽に耽る欲望にかられる。エドワルダは「両手でテ-ブルにすがりついたまま(中略)彼女は片脚を高々と持ち上げていた。それをいっそう拡げるために、両手で皮膚を思いきり引っぱり(中略)生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛸」(M.E.191)を彼の前にさらけだす。自分が「神」であることを告白した彼女は、彼にクンニリングスをさせる。二人は娼婦の部屋入り》の儀式をし、性愛行動を堪能する。その後二人は外に出る。サン・ドニ門の下でマダム・エドワルダはエロティックな光景を生み出す。この雰囲気に酔い痴れながら、二人はタクシ-に乗り込み、《中央市場》を目指す。エドワルダは素っ裸になり、タクシ-を止める。彼女は運転手に「抱きつき、唇に接吻し、片手でズボンの中をまさぐった。引き出したのは、長い嵩ばったしろものだった。(中略)馬乗りのエドワルダは、髪をふり乱し、上体を伸ばして、頭をうしろにのけぞらせていた」(M.E.212-213)。二人の情事がすみ、タクシ-の中でこの三人は眠りに入る。最初に目を覚ましたアンジェリックが、死への期待を感じながら、この物語は終わる。 この作品の特徴は、ただ単にエロティックでないところにある。すなわち、この作品はエロティックな文面と合わせて、形而上学の要素が織り込まれている。このことについて、澁澤は次のように述べている。「接続詞の極度に少ない簡潔な断絶的な文体といい、残忍な形而上的なイメ-ジといい、ここには、あのバタイユを思わせるものがすべて揃っている。暗黒の中から次々と立ちあらわれてくる、瞬間的な、血を滴らすような、奇妙に生ま生ましい凝集力にみちた『エドワルダ夫人』の文体は、サルトルによって「二十世紀の神秘家」と評されたあのバタイユ以外には、いかなる現代作家にも書けるものではないはずだ、という気がされてくる」。 さらに 「エロティックな描写のなかに大文字の「神」などと言う言葉が、突如として飛び出してきたりする。おそろしく卑猥で、おそろしく神聖な観念がごちゃまぜになって、あたかも真っ暗な夜のなかを恍惚として漂っているかのような、何とも説明のつかない秘密めいた、これは一種の内的体験に即した哲学小説なのだ。哲学のオルガスムとでも言うべきか」。 このように、澁澤は『マダム・エドワルダ』の中に形而上学的なもの、哲学的なものを見ている。次に、このことについて詳しく見ていきたい。
この作品には注目したい単語が幾つかある。例えば、「傷口(la blessure)」はヴァギナの暗喩であるし、「神」という単語の多くは大文字で表わされているので重要といえる。また、「沈黙(le silence)」や「身震い(trembler)」「夜(la nuit)」は文中において頻繁に出てくる単語である。
マダム・エドワルダの行動や様子を示す単語に「glisser」が出てくる。この単語は通常「滑る」と訳されるが、この作品では「ゆるやか」「陥没」「埋没」「なかへ導く」などと訳されている。結論を言えば、この単語は「ヴァギナへの挿入」を意味している。ぬるぬる「滑る」ことが極度の快楽を導き、止めることができないこと(すなわち不可能なこと)を表わしているのである。この単語を含む文章が表わしている情景を、娼婦の行動と同一視すれば、この作品が描いているものがよく分かる。
「苦悩(l'angoisse)」という単語は、主に語り手であるアンジェリックを主体にしている。すなわち、アンジェリックの苦悩には、「l'angoisse」を用い、エドワルダの苦悩には、「la souffrance」が用いられている、ということである。しかし、この提言には難点が一つある。それは、「世界と彼女のなかの苦悩(le monde et l'angoisse en elle)」(M.E.203、Mme.E.25)という文中の「苦悩」の解し方である。ここでの「l'angoisse」の主体は、エドワルダである。そこで、「l'angoisse」を精神的な苦悩として、「la souffance」を肉体的な苦悩として解釈してみた。このように見ると、後者の訳語には「苦痛」が適しているのではなかろうか、と思う。また、ここにおもしろい関係があらわれてくる。それは、主に、男の苦悩は精神的なもので、女の苦悩は肉体的なもの(すなわち苦痛)であるという関係である。ただし、バタイユがこのことに気付いて著述していたかどうかは疑問である。
「夜(la nuit)」という単語は、この単語自体バタイユの思想のキ-・ワ-ドである。彼は夜と裸とを同一視している。『マダム・エドワルダ』の中にも「おれも夜のように裸になりたかった」(M.E.188)とある。このからくりは単純な言葉遊びである。つまり、「nu-it(夜)」のスペルの中には「nu(裸)」があるということである。この結果、「夜」が二重の意味に使われていることがわかる。すなわち、時間的な意味での「夜」と、裸の娼婦エドワルダを暗喩している「夜」という二重である。夜の静けさは娼婦の沈黙(la silence であり、夜の寒さに震えるように、男は娼婦の沈黙に震える(trembler)のである。
訳本の中で、彼女という単語が鍵括弧で表わされている箇所がある(M.E.200)。これは原文で、elle(彼女)が文章の頭でないにもかかわらず、単語の頭文字が大文字になっている(Elle)ことによる。これは、「娼婦=神」という意味を表わしている。このことについてバタイユは、娼婦が「神」であることを皮肉の意味に解するのは誤りだ、と言及している(M.E.206)。続けて彼は、「厳密に言えば、おれの悲しみを笑わなければならないことは、おれにとってありがたい。傷付いた心の持ち主だけが、おれの言うことを聞き入れてくれる。決して癒そうとはしなかった、不治の傷を負ったものだけが・・・」(Mme.E.26)という。バタイユの頭の中では、キリスト教と生物学の知識とが混在していると考えるのは、私の読み過ぎであろうか・・・。
バタイユが「無意味」「神」「笑い」「狂気」について語るとき、彼はニ-チェの「無意味への喜び」を念頭に入れているのではなかろうか。ニ-チェの著作『人間的な、あまりに人間的な自由な精神のための書』の213 番の中に、「我々が戯れ、かつ笑うのは、予期されたことが(これは通常は不安と緊張感を引き起こすものであるが)なんの実害もないかたちで発散されるときである」という言葉がある。この言葉を文学的な表現(しかもポルノグラフィ-)で表わしたものが、バタイユの『マダム・エドワルダ』なのではなかろうか。
毎朝、私たちは目覚め、働いたり、戯れたりする。このような人間の営みに、何の意味があるのだろうか。そして、私たち自身の存在が無意味なのではなかろうか。つまり、私たちは狂人のように、無意味(non-sens)に行動しているのである。美辞麗句が無益であるように(すなわち、美しく振舞うことが無益であるように)、「おれの営みは無益である(j'ai beau faire)」(M.E.216、Mme.E.30)。このように見ていくと、私たちの営みは正気を失った(狂気)ものにしか分かってもらえそうにない。だから、このことは不治の傷を負ったもの(瀕死の人間)にしか分からない。すなわち、傷(la blessure)のある人間と、そして彼女の傷口(la blessure)に己自身を滑り込ませ(glisser)、「理由もわからず、寒気で、震え(tremblant)つづけ」(M.E.216)る人間、「無限の拡がりに、暗闇(la nuit)にとりまかれ」(M.E.216)存在している人間とにしか分からない、ということである。そしてバタイユは、神がこのことを知っているかと信心家などに問い掛け、「もしご存知とすれば、神は豚にも等しい野郎であろう」(M.E.217)と言い放つ。彼はこの言葉について、付注を設けて解説している。
この付註を含めて、この作品を最後まで読んだ読者の中には、猥褻性と哲学性とが混濁した内容に、深い思慮を巡らす人もいるだろう。しかし、この付注には、この物語の「裏の」結末が隠されている気がしてならない。
「神は豚にも等しい野郎」について、バタイユは「まさに、悪戯で濡れている、《髪を乱した》神を想定している」(Mme.E.31)と前置きした後、このような神が「彼方へ、一切の彼方へ、さらに、さらに先まで」(M.E.219)、「空虚以上の陶酔の中で」(Mme.E.31)、観念を見極めるだろう、と述べている。またバタイユは、神のこのような状態に、「人間性があるのだろうか」(Mme.E.31)と疑問視している。彼のこの問い掛けに対する答えは、おそらくノ-であろう(そもそも、神に対して人間性を問うこと自体がおかしいのではなかろうか)。もしそうだとすれば、神にあるのは動物性か、聖性である。そして、「神は豚にも等しい」のだから、神にあるのは動物性のほうである。ここで、「俺は顫えている(JE TREMBLE)」という言葉に注目したい。この付註では、この言葉と「神自身(LUI-M ME)」という単語だけが大文字で表わされており、この二つには共通性がある。つまり、動物性を帯びた神は、身震いしている著者自身である、ということである。
このようにして私たちは、著者が人間の無意味な活動について説明するために、悪戯で濡れながら、髪を乱して陶酔状態に向かっている、と考えることができる。もっと詳しく説明するなら、男が女の傷口に己自身を滑り込ませ、濡れながら、髪を乱して、身震いするように、著者がこの作品を身震いしながら書いている姿を、私たちは思い浮かべることができる、ということである。もっともここでは、情交で身震いしているというよりも、マスタ-ベ-ション(masturbation)で身震いしていると言ったほうが、正確かも知れない。よって『マダム・エドワルダ』の「裏の」結末とは、この作品の読者は、バタイユがマスタ-ベ-ションをしている姿を見ながら、無意味について書かれたこの作品について形而上学的に考察してきた、ということである。結局私たちは、糞真面目に解読するという無駄なエネルギ-を使うことにより、バタイユの提出した「人間の無益な活動」というテ-マについて、身を持って知ることができたのである。
『マダム・エドワルダ』は、そのわけの分からない猥褻さに言葉を濁しながら思慮を巡らす読者と、著者のマスタ-ベ-ションを見ていることに気付き、爆笑する読者とを生み出す、おもしろい作品である。
=註=
※略記号
M.E.
「マダム・エドワルダ」
(『眼球譚、マダム・エドワルダ』生田耕作コレクション1)
生田耕作訳、白水社、1988
Mme E.
Madame Edwarda
Œuvres complètes de G.Bataille, III, Gallimard, 1971